十三浜小指-八重子おばあちゃんの日記

十三浜小指は宮城県石巻市にある小さな集落です。八重子は大正8年(1919)生まれ。昭和24年(1949)12月から始まる日記。

これまでありがとうございました

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旧暦昭和二十七年一月五日、現在のカレンダーでは同年一月三十一日。
八重子は四人目の子供を産みました。元気な女の子、次女信子です。
ですがこの日、お産の事故により八重子自身はかえらぬ人となりました。
 
『八重子おばあちゃんの日記』をブログとしてアップしてきた私は、八重子おばあちゃんと会ったことがありません。
母・佐喜子が持っている一枚の写真でその顔を知っているだけです。
写真の八重子は姿勢正しくカメラを見つめ、豪華なおくるみの長女佐喜子を抱いています。
「お母さんのお母さんは、早くに亡くなっているんだよ」と聞かされても、ふぅん・・・と思っていた程度。
私にとっての”おばあちゃん”は、八重子亡き後にそのバトンを受けた千代子でした。八重子の妹であり日記にもたびたび登場しています。
千代子おばあちゃんが、幼い子供達の母となり、自らも二人の男の子を産み育てあげました。
仙台、東京と生活の場を移した子供達・孫達を休みや行事の度に迎え、「これが浜のごっつぉ(ごちそう)だ」と海の幸をテーブルからこぼれんばかりに並べてくれました。
私はいとこ達と遊ぶことに夢中で、祖父母との関わりは正直あまり覚えていないです。でも、きっとおばあちゃんやおじいちゃんは孫達がころころガヤガヤしているところを見て笑ってくれていたのだろうなと思います。自分の子供達がいま目の前にいる孫くらいの年だった頃、もっと前、自分達がとても若かった頃、もっと前、自分達も子供だった頃、八重子と一緒に過ごしていた頃、も思い出して。
時間は続いている。会えなくなった人がいても、その人がいた時間はずっと今に続いている。
 
八重子おばあちゃんの日記は、叔父叔母が5年ほど前に十三浜の家で見つけました。
兄弟の間を順々に手渡されましたが、長男・正彦伯父は、この日記は次女・信子叔母が持っているといいよ、と言ったそうです。
きっと、俺たちには母親の思い出や一緒に写った写真がある、信子は産まれた瞬間に母親と離れてしまったんだから、という思いで。
八重子が十月に縫っていた「かめの子」は真冬に産まれる信子を暖かくおんぶするための準備だったのでしょう。
出産間近の身重のからだであっても、とうとう一言も自分自身のからだについて書くことがなかった八重子であり、その自制心には驚くばかりですが
弟妹、子供達への気持ちは抑えても抑えてもあふれてしまったぶんが記されていたように思えます。
いわく、「妹の嫁入り姿をみたかった」「おじいさんの喜びは言葉では言い表せない」「子供に泣かれて人しれづ涙を」「誕生祝いを心づくしで」・・・
 
2011年3月11日の津波で、八重子の家も何もかも海にもっていかれました。
この日記が数年前に十三浜から持ち出されていた事は偶然ですが、あるべき出来事であったのだろうと思えます。
いま十三浜小指の集落は場所を高台の造成地へ移し、新しい暮らしが始まろうとしています。
 
弟妹と家族を愛し、作物や蚕を心をつくして丁寧に育て、お日様や雨の恵みに感謝する。
手間をかけることをあたりまえとして家の中を取り仕切り、おいしいものをつくり、みんなで食べる。
そういった生き方の美しさを私は日記から教えてもらえました。
敬虔な姿勢で生きる人が持つ柔らかな光や健やかな香りも、60年という時に濾過されたエッセンスとして受け取ることができました。
 
そして、そういうものをたくさんの人達と共有できるのだということもはじめて知りました。
 
ブログを読んでくださったみなさん、これまでほんとうにありがとうございました。