十三浜小指-八重子おばあちゃんの日記

十三浜小指は宮城県石巻市にある小さな集落です。八重子は大正8年(1919)生まれ。昭和24年(1949)12月から始まる日記。

八重子日記 PDFファイルをご覧いただけます

こちらのリンク先から、日記のPDF版をご覧いただけます

 

 

http://hdl.handle.net/2115/64478

 

できあがりました

たくさんの人たちのご厚意で

『八重子おばあちゃんの日記』あらため

『十三浜小指 八重子の日記』が出来上がりました。

 

作成経過など随時ご報告していくつもりだったのですが、あれ、いつの間にやら・・・

今月印刷が完了しました。

 

注釈の内容は、親戚からの聞き取りや、ご一緒に作り上げていただいた先生方の見識、先生方がお付き合いされている町の歴史に詳しい方たちの話・・と、とてもとても充実したものになりました。

表紙の装丁や本文のレイアウトも丸ごと作っていただいております。素敵です。f:id:kuresakibunko:20170210212255j:plain

 

ブログを通じて出会えたみなさま、ぜひ手に取って見て頂きたいです。

ぶしつけなお願いではありますが、下のアドレスへ一度メール頂けませんでしょうか。

 

yaeko.jyusanhama.kozashiアットマークgmail.com

※アットマーク を @ へ 置き換えてください

 

頂いたメール宛に私から返信差し上げ、こちらの連絡先等をお伝えしたうえで、お送りする方法のご相談ができればと思います。

勝手を申し上げて恐縮ですがどうぞよろしくお願いいたします。

 

読んでくれていたみなさま ご協力のお願いです

 2年半ぶりの記事更新となります。みなさまお元気でいらっしゃいますでしょうか。

 最終記事更新後、なんとなく手付かずでおりました冊子化ですが、このたびいろいろなご縁が重なって思いがけず大きなご支援をいただけることとなりました。

 十数年前から十三浜を含む北上地方を調査されていた環境社会学の先生、研究室のみなさんがこのブログを目に留められ、調査の際に十三浜の人たちが暮らす仮設住宅で話題にだし、あぁそれはあの人の家のことだと知っている人がおられ、そうしたらあらびっくり先生と叔父はもともと既知の間柄であった....というような。

 ともかくこちらの先生から冊子化するにあたって驚くほど寛大な温かいご支援・ご指導をいただけることとなり、動きだそうとしているところです。

 これから、

  ・親戚に聞くなどして、日記中のわからなかった点を埋めていく

  ・日記本文とあわせ、語句の解説などを充実させていく(文章や図など)

  ・日記中に出てくる場所の地図を作る、八重子を巡る人々の家系図をまとめる

 などの作業を大いに人の手を借りて進めていくこととなります。今度のお盆ころまでには形にしたい....

 

 その中でお願いがあります。このブログの中で、コメントとしてほんとうに胸に沁みる言葉や、新たな気づきとなるような質問をたくさん頂きました。スターの数も大きな励みでした。そういった、皆さんから頂いたコメントや質問もあわせて冊子中に記載させていただきたいのです。当時不明なままであった質問についても、その後調べた内容をもってできる限りお答えしていきたいと思っております。

 オッケーだよ、またはヤダよ、などコメントいただけますでしょうか。

 勝手なお願いをしてしまい大変申し訳ないのですが、もしもご了承いただければこんなに嬉しいことはありません。そして完成した際にはご迷惑でなければ冊子をお送りし見ていただきたいです。

 

 今後は作業の進み具合について随時この場でご報告して参ります。

 それでは改めましてこれからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

これまでありがとうございました

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旧暦昭和二十七年一月五日、現在のカレンダーでは同年一月三十一日。
八重子は四人目の子供を産みました。元気な女の子、次女信子です。
ですがこの日、お産の事故により八重子自身はかえらぬ人となりました。
 
『八重子おばあちゃんの日記』をブログとしてアップしてきた私は、八重子おばあちゃんと会ったことがありません。
母・佐喜子が持っている一枚の写真でその顔を知っているだけです。
写真の八重子は姿勢正しくカメラを見つめ、豪華なおくるみの長女佐喜子を抱いています。
「お母さんのお母さんは、早くに亡くなっているんだよ」と聞かされても、ふぅん・・・と思っていた程度。
私にとっての”おばあちゃん”は、八重子亡き後にそのバトンを受けた千代子でした。八重子の妹であり日記にもたびたび登場しています。
千代子おばあちゃんが、幼い子供達の母となり、自らも二人の男の子を産み育てあげました。
仙台、東京と生活の場を移した子供達・孫達を休みや行事の度に迎え、「これが浜のごっつぉ(ごちそう)だ」と海の幸をテーブルからこぼれんばかりに並べてくれました。
私はいとこ達と遊ぶことに夢中で、祖父母との関わりは正直あまり覚えていないです。でも、きっとおばあちゃんやおじいちゃんは孫達がころころガヤガヤしているところを見て笑ってくれていたのだろうなと思います。自分の子供達がいま目の前にいる孫くらいの年だった頃、もっと前、自分達がとても若かった頃、もっと前、自分達も子供だった頃、八重子と一緒に過ごしていた頃、も思い出して。
時間は続いている。会えなくなった人がいても、その人がいた時間はずっと今に続いている。
 
八重子おばあちゃんの日記は、叔父叔母が5年ほど前に十三浜の家で見つけました。
兄弟の間を順々に手渡されましたが、長男・正彦伯父は、この日記は次女・信子叔母が持っているといいよ、と言ったそうです。
きっと、俺たちには母親の思い出や一緒に写った写真がある、信子は産まれた瞬間に母親と離れてしまったんだから、という思いで。
八重子が十月に縫っていた「かめの子」は真冬に産まれる信子を暖かくおんぶするための準備だったのでしょう。
出産間近の身重のからだであっても、とうとう一言も自分自身のからだについて書くことがなかった八重子であり、その自制心には驚くばかりですが
弟妹、子供達への気持ちは抑えても抑えてもあふれてしまったぶんが記されていたように思えます。
いわく、「妹の嫁入り姿をみたかった」「おじいさんの喜びは言葉では言い表せない」「子供に泣かれて人しれづ涙を」「誕生祝いを心づくしで」・・・
 
2011年3月11日の津波で、八重子の家も何もかも海にもっていかれました。
この日記が数年前に十三浜から持ち出されていた事は偶然ですが、あるべき出来事であったのだろうと思えます。
いま十三浜小指の集落は場所を高台の造成地へ移し、新しい暮らしが始まろうとしています。
 
弟妹と家族を愛し、作物や蚕を心をつくして丁寧に育て、お日様や雨の恵みに感謝する。
手間をかけることをあたりまえとして家の中を取り仕切り、おいしいものをつくり、みんなで食べる。
そういった生き方の美しさを私は日記から教えてもらえました。
敬虔な姿勢で生きる人が持つ柔らかな光や健やかな香りも、60年という時に濾過されたエッセンスとして受け取ることができました。
 
そして、そういうものをたくさんの人達と共有できるのだということもはじめて知りました。
 
ブログを読んでくださったみなさん、これまでほんとうにありがとうございました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

昭和二十七年 正月一日

正月一日日曜 晴

 はれたしづかなよい元日です。
 みんな来て酒のみをして祝っていきました。
 今年もよい年であるようお祈りいたしました。
 
 
 
 

昭和二十六年十二月二十五日

十二月二十五日月曜 晴
 あめをこしらへた。
 四時頃おきてご飯をたいて
 七時頃もやしをからんで、二時一番をこした。
 二ばんは夕ごはんを食べてから、夜は十時すぎまでかかった。
 
十二月二十六日火曜 晴
 粉つきをした。
 今年は米は一斗です。
 追波から粉をもらったのでとてもよかった。
 
十二月二十七日水曜 晴
 くさもちをつきました。
 正子一人でついたのでとてもひどかった。
 私はこねどりをした。
 五うすにした。
 
十二月二十八日木曜 晴
 もちつきです。
 あわびの口もあきました。
 五時におきて今日も正子がついた。
 今年は二斗五升ついた。
 わくとりでとてもかんたんです。
 
十二月二十九日金曜 晴
 すばやのあめをこしらへた。
 おかあさんが飯野川へいったので私がしました。
 
十二月三十日土曜 晴
 今まであたたかいのでしたが今日は今年にない寒さでした。
 くさもちはとてもすみた。
 今年の仕事もこれで全部おへてよい年をとりました。
 夜はゆっくりお茶のみをしました。

 

昭和二十六年 十二月一日

十二月一日金曜 晴
 餅をおいしく食べた。
 せんたくをしてたら網は波立ちで相川につけて
 夕方までかかった。
 たらは一かごばかりとった。
 政太郎さんからもち米五升いただいた。
 
十二月十六日土曜 晴
 とても寒い日です。
 養蚕のわく代十瓦十円の割で集めた。
 小泊の先生へ渡した。
 
十二月二十三日土曜 晴
 追波からもち米一俵きた。
 モーターでつみにいった。
 今年はじめて米できた。
 
十二月二十四日日曜 晴
 今日はすすはきでした。
 とてもしづかなよいお天気でなによりでした。
 夕方まですっかりかたついて気持ちよかった。