十三浜小指-八重子おばあちゃんの日記

十三浜小指は宮城県石巻市にある小さな集落です。八重子は大正8年(1919)生まれ。昭和24年(1949)12月から始まる日記。

続・お知らせ 12月2日河北新報「河北春秋」にて日記が紹介されました

河北新報朝刊のコラム「河北春秋」にて、『十三浜小指 八重子の日記』が紹介されました。

https://www.kahoku.co.jp/column/kahokusyunju/

 

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河北新報は東北の地元紙で、震災の翌日にも新聞を届けてくれました。そういった強い思いで地域を支えている新聞でご紹介いただけたことがとても嬉しいです。

お知らせ2つ その2:婦人之友12月号座談会”生活の記録―日記を書く・読む・語る”にて『八重子の日記』が取りあげられます

 お知らせその1の勉強会の場で、婦人之友社の方とお会いしました。叔父や先生方とは古くからお知り合いだったそうで、誌面でも『八重子の日記』をご紹介していただきました。その方の発案により、来月発売の婦人之友12月号にて座談会”生活の記録―日記を書く・読む・語る”が掲載されることとなりました。座談会は、『八重子の日記』の冊子化を行ってくださった先生、50年以上にわたって丁寧な家計簿・日記をつけてこられた婦人之友会員の方、私の3人が参加しています。八重子の日記などを題材にして、日常を記録する行為について話し合いました。

 座談会で先生から日記をつけ続ける意義を問われた際に、婦人之友会員の方がおっしゃったのは「明日を今日より少しでもよいものにしようという事でしょうね」という言葉でした。問いかけに対し、しばしじっと考え込まれた後に静かに語られたこの言葉を聞き、息を飲む思いでした。次の瞬間自分の目からぽたっと涙が落ちたことにもびっくりしました。今日を振り返り明日のために善きことを見つけながら歩んできた人は、このような語る言葉をもちえるのだと、そういった方とお会いできる機会をつくっていただいたことに感謝しきれない思いです。

 今回雑誌へ掲載されることで、また誰かが『八重子の日記』を読んでくれるのかもしれません。勉強会の開催も、婦人之友記者さんとのご縁も、先生方や叔父や従妹がこれまで紡いできたものであり、そこからまたきっといろいろな場所へ日記のご縁がつながってゆくのだろうと思います。

 

 そして私としては、はじまりがこのブログであったこと、読んでくださっていた方へ感謝の気持ちでいっぱいです。またいつか楽しいお知らせができますように。

お知らせ2つ その1:公開勉強会「『十三浜小指 八重子の日記』について語りあう」が開かれました

 もう一年近く前になってしまいましたが、2017年12月17日、『十三浜小指 八重子の日記』に関して公開勉強会が開かれました。日記を作り上げてくださった先生が中心となり開催されたものです。十三浜の復興まちづくり情報館で開かれ、地域の皆さん、いろいろな分野の大学の先生たち、うちの親族や日記に興味をもってくださったかたなどが集まり、活気のある楽しい勉強会でした。

 女性の視点で書かれ残された記録は数が少ないこと、記された生活のあり様が貴重な資料となることなどが語られ、日記をそのように見て頂けて嬉しかったです。八重子おばあちゃんの語り口についてもいくつかの考えをお聞きしました。感情を抑制した静かな筆致が、戦地の慰霊へ赴く人の語り口に似ているとおっしゃった先生。そして、この日記そのものが戦死した前夫・善二郎さんへ向けて記されたものではないかとおっしゃった先生。はっとする新しい視点を与えていただきました。 

 そう、注釈作りの際にもわからなかった、「ざんす※」という語の意味もこの場で解明していただきました。十三浜に暮らす方から、これは「残酒(ざんしゅ)」のことだねぇ、と。前日の宴会で余ったお酒を、翌日に女の人たちが集まって飲むのだそうです。お疲れさま会のような形でしょうか。気楽な楽しい集まりだったのだろうなと想像しました。

 当時を知る人や、地元に暮らし続ける人たちがこうやって集まり、ああだった、そうそう、こんな感じだったというお話を聞けるのはとても楽しかったです。話すことで引き出される記憶がある、日常のできごとであったからこそ、なかなか話題に上がらず思い出されないままの事柄がもっともっとあるのだろうと感じました。

 

※昭和二十四年 正月二十一日木曜 晴

 今日はざんすで、おばあさんたちをよんでごちそうしました。

できあがりました

たくさんの人たちのご厚意で

『八重子おばあちゃんの日記』あらため

『十三浜小指 八重子の日記』が出来上がりました。

 

作成経過など随時ご報告していくつもりだったのですが、あれ、いつの間にやら・・・

今月印刷が完了しました。

 

注釈の内容は、親戚からの聞き取りや、ご一緒に作り上げていただいた先生方の見識、先生方がお付き合いされている町の歴史に詳しい方たちの話・・と、とてもとても充実したものになりました。

表紙の装丁や本文のレイアウトも丸ごと作っていただいております。素敵です。f:id:kuresakibunko:20170210212255j:plain

 

ブログを通じて出会えたみなさま、ぜひ手に取って見て頂きたいです。

ぶしつけなお願いではありますが、下のアドレスへ一度メール頂けませんでしょうか。

 

yaeko.jyusanhama.kozashiアットマークgmail.com

※アットマーク を @ へ 置き換えてください

 

頂いたメール宛に私から返信差し上げ、こちらの連絡先等をお伝えしたうえで、お送りする方法のご相談ができればと思います。

勝手を申し上げて恐縮ですがどうぞよろしくお願いいたします。

 

読んでくれていたみなさま ご協力のお願いです

 2年半ぶりの記事更新となります。みなさまお元気でいらっしゃいますでしょうか。

 最終記事更新後、なんとなく手付かずでおりました冊子化ですが、このたびいろいろなご縁が重なって思いがけず大きなご支援をいただけることとなりました。

 十数年前から十三浜を含む北上地方を調査されていた環境社会学の先生、研究室のみなさんがこのブログを目に留められ、調査の際に十三浜の人たちが暮らす仮設住宅で話題にだし、あぁそれはあの人の家のことだと知っている人がおられ、そうしたらあらびっくり先生と叔父はもともと既知の間柄であった....というような。

 ともかくこちらの先生から冊子化するにあたって驚くほど寛大な温かいご支援・ご指導をいただけることとなり、動きだそうとしているところです。

 これから、

  ・親戚に聞くなどして、日記中のわからなかった点を埋めていく

  ・日記本文とあわせ、語句の解説などを充実させていく(文章や図など)

  ・日記中に出てくる場所の地図を作る、八重子を巡る人々の家系図をまとめる

 などの作業を大いに人の手を借りて進めていくこととなります。今度のお盆ころまでには形にしたい....

 

 その中でお願いがあります。このブログの中で、コメントとしてほんとうに胸に沁みる言葉や、新たな気づきとなるような質問をたくさん頂きました。スターの数も大きな励みでした。そういった、皆さんから頂いたコメントや質問もあわせて冊子中に記載させていただきたいのです。当時不明なままであった質問についても、その後調べた内容をもってできる限りお答えしていきたいと思っております。

 オッケーだよ、またはヤダよ、などコメントいただけますでしょうか。

 勝手なお願いをしてしまい大変申し訳ないのですが、もしもご了承いただければこんなに嬉しいことはありません。そして完成した際にはご迷惑でなければ冊子をお送りし見ていただきたいです。

 

 今後は作業の進み具合について随時この場でご報告して参ります。

 それでは改めましてこれからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

これまでありがとうございました

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旧暦昭和二十七年一月五日、現在のカレンダーでは同年一月三十一日。
八重子は四人目の子供を産みました。元気な女の子、次女信子です。
ですがこの日、お産の事故により八重子自身はかえらぬ人となりました。
 
『八重子おばあちゃんの日記』をブログとしてアップしてきた私は、八重子おばあちゃんと会ったことがありません。
母・佐喜子が持っている一枚の写真でその顔を知っているだけです。
写真の八重子は姿勢正しくカメラを見つめ、豪華なおくるみの長女佐喜子を抱いています。
「お母さんのお母さんは、早くに亡くなっているんだよ」と聞かされても、ふぅん・・・と思っていた程度。
私にとっての”おばあちゃん”は、八重子亡き後にそのバトンを受けた千代子でした。八重子の妹であり日記にもたびたび登場しています。
千代子おばあちゃんが、幼い子供達の母となり、自らも二人の男の子を産み育てあげました。
仙台、東京と生活の場を移した子供達・孫達を休みや行事の度に迎え、「これが浜のごっつぉ(ごちそう)だ」と海の幸をテーブルからこぼれんばかりに並べてくれました。
私はいとこ達と遊ぶことに夢中で、祖父母との関わりは正直あまり覚えていないです。でも、きっとおばあちゃんやおじいちゃんは孫達がころころガヤガヤしているところを見て笑ってくれていたのだろうなと思います。自分の子供達がいま目の前にいる孫くらいの年だった頃、もっと前、自分達がとても若かった頃、もっと前、自分達も子供だった頃、八重子と一緒に過ごしていた頃、も思い出して。
時間は続いている。会えなくなった人がいても、その人がいた時間はずっと今に続いている。
 
八重子おばあちゃんの日記は、叔父叔母が5年ほど前に十三浜の家で見つけました。
兄弟の間を順々に手渡されましたが、長男・正彦伯父は、この日記は次女・信子叔母が持っているといいよ、と言ったそうです。
きっと、俺たちには母親の思い出や一緒に写った写真がある、信子は産まれた瞬間に母親と離れてしまったんだから、という思いで。
八重子が十月に縫っていた「かめの子」は真冬に産まれる信子を暖かくおんぶするための準備だったのでしょう。
出産間近の身重のからだであっても、とうとう一言も自分自身のからだについて書くことがなかった八重子であり、その自制心には驚くばかりですが
弟妹、子供達への気持ちは抑えても抑えてもあふれてしまったぶんが記されていたように思えます。
いわく、「妹の嫁入り姿をみたかった」「おじいさんの喜びは言葉では言い表せない」「子供に泣かれて人しれづ涙を」「誕生祝いを心づくしで」・・・
 
2011年3月11日の津波で、八重子の家も何もかも海にもっていかれました。
この日記が数年前に十三浜から持ち出されていた事は偶然ですが、あるべき出来事であったのだろうと思えます。
いま十三浜小指の集落は場所を高台の造成地へ移し、新しい暮らしが始まろうとしています。
 
弟妹と家族を愛し、作物や蚕を心をつくして丁寧に育て、お日様や雨の恵みに感謝する。
手間をかけることをあたりまえとして家の中を取り仕切り、おいしいものをつくり、みんなで食べる。
そういった生き方の美しさを私は日記から教えてもらえました。
敬虔な姿勢で生きる人が持つ柔らかな光や健やかな香りも、60年という時に濾過されたエッセンスとして受け取ることができました。
 
そして、そういうものをたくさんの人達と共有できるのだということもはじめて知りました。
 
ブログを読んでくださったみなさん、これまでほんとうにありがとうございました。